ここはかくれが、ふたりきり。

わたしがいて、あなたがいる。あなたがいて、わたしがいる。どちらが先かに意味はなく、このひとときに、ひとりになれる。

ゆめの涯~ソロキャンプ道 其の零 最終頁~

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◯創造の病◯

  私が初めてこの言葉に出会ったのは、正確には覚えていないが、おそらく高校生の頃、河合隼雄氏の『「日本人」という病』という書籍の中である。英語でいうところの「クリエイティブ・イルネス」は、そもそもH.エレンベルガーという精神科医によって提唱されたもので、その内容は以下のようなものである。

「創造の病い」とは何か。中井久夫は『治療文化論』(岩波現代文庫、二〇〇一年)の中でそれをこう説明している。
抑うつや心気症状が先行し、「病い」を通過して、何か新しいものをつかんだという感じとそれを世に告知したいという心の動きと、確信に満ちた外向的人格という人格変容をきたす過程である。(59頁)
興味深いのは「創造の病い」が通常の疾病分類に入りえないことである。フェヒナーはうつ病だそうであり、フロイト神経症ユングはほとんど分裂病に近かったであろう。ウェーバーは重症うつ病だとされる。ウィーナーは何と肺炎に起因する症候性精神病である。(59-60頁)
おそらく、分裂病うつ病と推定された人も含めて、多少の意識混濁あるいは意識変容が必要なのであろう。「創造の病い」においては何らかの形の意識混濁あるいは変容が伴うと私は思うのだが、その理由は、それなくしては、過去と未来と現在とが一望の下に見えるような、そして、その中で、創造的な仕事の条件である「思いがけないものの結合」が起こらないからであろう。(60頁)

 引用元(いずれも):内的自己対話-川の畔のささめごと(https://blog.goo.ne.jp/kmomoji1010/e/2836988fab4a6bb58748d277c5e989e5);2019/11/15参照

 

 書籍の内容は忘れてしまい、持っていることすら記憶の彼方へ追いやられていたにもかかわらず、私が「創造の病」という言葉を思い出したのは、上にも登場する「カール・グスタフユング」について調べていたからである。なぜユングを調べようと思ったのか、そのきっかけはまったく覚えていない。不意に思い浮かんだ「創造の病」というワードを検索したからなのか、どこかでたまたまユングという文字を目にしていたからなのか……。とにかく、ユングを調べたときに「創造の病」という言葉がリンクされていたのだ(そこからユング心理学に興味を持っていくのだが、それはまた別なところで話題にできればと思う)。

 特に今の私の状態を形容するにあたって「創造の病」を用いるのが最適だと思った理由は、引用文の二段目にある。まさしくその通りであり、心の何かにピッタリとはまり込んだ感覚があった。

 

 

◯生の涯◯

 いよいよ私は30歳を迎えようとしている。高校生・大学生だったあの頃の自分が想像すらしなかった世界である。私たちに与えられた時間は無限ではない。いずれ運命として死に行き、その先に残るものはなにもない。だからこそ、私は、この生に意味があったのだと、この世に確かに生きていたのだと、その証を残そうと必死なのかもしれない。死にたくはない。だが、死ななくてはいけない。そんなシステムに懸命に抗っているのかもしれない。与えられた生命が輝けるだけ輝こうと、そのための試行錯誤が、今の私のぐちゃぐちゃに乱れる心の中身の正体なのかもしれない。

 

 

 

 

 さて、以上が私の、ソロキャンプに行きたい理由である。このような経緯で、私の心は自然に解き放たれがっているのだ。と言われたところで、読者諸氏には置いてきぼりを食らわされたという気持ちしか残らないかと思うが、少し待ってほしい。これはまだ「其の零」、たったのひとつも始まっていないのである。

 ここまでの記事はすべて、私が新しいことに向かおうとするための原動力としてのものであり、ここにしたためることによってようやく、私の動機は言語化され、私に認知されていくのである。

 これでもはや迷うことなど何もない。ここから始まる世界こそが、私が切り拓いていこうとする世界そのものなのである。

 

 

其の零 ~完~